2017年4月22日土曜日

エッセイ4 春に想う。

春は、桜の季節。
桜は、日本の風土が長い年月をかけて育み、受け継いできた心の象徴だ。
桜は、特別であり、格別。
力ではなく、包み込む優しさで人を圧倒する。そんなことができる花は桜だけだ。
なんて、難しい言葉を並べても、桜の実力には到底届かない。実際桜の前に立てば、「美しい」のひと言しか出て来ない。
「きれいですね」と言い、「きれいですね」と返す。
それだけだ。
それだけで良い。

「〇〇で桜が開花しました」「〇〇では桜はまだ開花しません」「〇〇の桜は明日には開花するかと……」
全国放送のニュースで毎日のように一種類の花の開花が告げられるなんて、外国から来た人にとっては驚きだ。この時期に日本に来た人達はきっと「日本は本当に平和な国だなあと」思うだろう。

桜は、日本に元気をくれる。
大変なことがあっても、満開の桜を見ると、何だか頑張れそうな気持ちになる。
そう言うとまた外国の人は「花が咲いただけで?」と首を傾げるかもしれない。

多くの日本人が、桜が咲く頃になると、そわそわする。
「散り際が潔い」とよく言われるけれど、その表現は私には切なすぎる。
それにそれは寧ろ近代に入ってからの概念だと思われる。

私は、平安の人々が見た桜と同じ桜を見ている。
雲のようにふんわりと白いかたまりが山肌に現れて初めて、「ああ、あそこに桜があったのだ」と驚き、喜び、人に話したくなる。
平安の人の言葉に、「うんうん。分かる分かる」とどれほど多くの人が頷いて来ただろう。鎌倉の人も。江戸の人も。現代の人も。
文字になって残された想いが、長い時間を経て、人々の共感を繋ぐ。

桜は不思議だ。
花を咲かせるまでひっそりとその存在を隠し、花が終わればまた人々の視界からいつの間にか逃れてしまう。
一年のうちの二週間ほど、そんな僅かな間だけ、一番美しい姿を見せ、それ以外の長い長い苦労の時を過ごす間は上手に人目から隠れている。そこにあるのに、どこにも行かないのに、何故か私達は桜の木を見ることを忘れてしまう。
だから、一年に一度、人々はその姿を見た時、多くの想いが溢れるのだと思う。

今年もまた咲いたね。
今年もまた頑張っていたんだね。
今年もまた変わらずにいてくれるものがある。
今年もまた新しい始まりがある。

桜を見上げた目に映るのは、「春」だ。
黄砂に霞む空。
うっすらとした水色。
遠くの山肌も街路樹の木々も淡い光をまとう。
生まれたばかりの緑色。
おぼろげなのが良い。
まだくっきりと固まる前のやわらかさが良い。
未熟さは、可能性を秘めているから。




2015年12月30日水曜日

エッセイ3 ねこの表情

私は、猫に会うと、声をかける。
猫好きな人には、分かってもらえると思うが、猫は話しかける価値がある動物だ。
「ねこ」と呼びかけると、彼等はこちらを見る。
立ち止まってしっかりと見つめる猫もいれば、ちらと横目で見て急ぎ足で立ち去る猫もいる。
いずれにしても、自分が話しかけられたと認識していることは間違いない。
つまり、彼等は「人間」が「彼等」を「ねこ」と呼んでいると知っているのだ。
猫に「いぬ」と声をかけたことがないので、どのような反応をするのかは不明だが。

とにかく、そうやって猫に声をかけた時、彼等の表情は様々で、実に面白い。

今日会った猫は、きれいなグレイの濃淡の縞模様が印象的だった。
目が合うと、立ち止まった。
あ、これは撫でさせてくれるかもと期待したが、ちょっと困った顔をして、ひょいと塀に飛び上がり、去って行った。急いでいる所だったらしい。残念。

猫の表情は様々に変わる。
猫にも個性があって、それぞれの性格が垣間見える。
「ちょうど遊び相手がほしかったんだ」と、嬉しそうな表情。
「今、手が離せないんだ」と、厳しい表情。
「いいよ、遊ぼう」と、楽しそうな表情。
ちょっと悩んでから、「まあ、少し遊んでやるかな」と、余裕の表情。
「ああ、今ちょっと都合悪いんだよね」と、申し訳なさそうな表情。
「かまってほしいの? しょうがないなあ」と、寛大な表情。

時に猫は、寡黙にじっとこちらを見つめることもあれば、にゃあにゃあと熱心に話をすることもある。残念ながら、私は猫語が分からないので答えようがないのだが、とりあえず話だけは真摯に聞くようにしている。
猫は、あの大きな瞳をまん丸にして、私達をしっかり見ようとしている。
異なる種の動物が、互いの言葉も話さないのに、自分達の言葉でコミュニケーションを取ろうとするのは、奇跡的に素晴らしいことだと思う。
それは、一方通行では成立しない。相手が自分と異なる動物であることと、コミュニケーションを取ろうと努力していることを、相互に理解して初めて可能となる。
犬や猫、象やイルカなどの哺乳類、鳥類その他の動物と、人間は触れ合い、心を通わせることができる。世界中で素敵な物語がたくさん生まれている。
でもそれは、人間だけが優れているのではなくて、相手の寛大さや理解力にかなり救われていると、私は思っている。


ところで、私が猫がすごいと思うのは、彼等はいつも寝ているようで(確かに寝ているのだが)、自分がするべき日課や仕事をきちんと持ち、考えて行動している点だ。
だから、パトロールやその他の用事があって急いでいる時には、おいしそうなおやつの誘惑にも乗らない。だが、少し時間に余裕があれば、人間につきあってくれることが多い。基本的には、優しくて、甘えん坊であり、実は面倒見が良い。

私の実家で昔飼っていた猫達も面白かった。
一匹は、外で見かけると、飄々としてすたすたとわき目もふらずに歩ていたのに、家に帰って来ると、文字通りの猫なで声で甘えるのがおかしかった。

別の猫は、その地域では強かったらしく、かなり遠方での目撃情報がある程だった。ある日、私が散歩に出かけようとすると、彼も出かけるところだったらしく、出て来た。
「一緒に散歩に行く?」と聞くと、少し先で振り返り、私を待った。
その後も歩きながら、度々振り返る。
私がついて来るのを確認しているようだった。
近所を一周して「私、帰るけど」と話しかけると、彼は「あ、そう。僕はまだ終わらないから」と(いうような表情をして)違う道を歩いていった。
その時、彼が速度を速めたので、それまで私の歩く早さに合わせていたのだなと、私は思った。
もしかすると、いつもの道順を、私のために変えていた可能性もある。
彼にしてみれば、私の世話をしているつもりだったのかもしれない。
猫を散歩させていると思っていたのは、私の勝手な思い上がりだったのだと、反省。

別の猫は、知らない猫を連れて来たことがある。
可愛い顔をした白い猫だった。飼い猫ではないように見えた。
「あらまあ、彼女?」と聞くと、彼は「まあね」と(いうように)しっぽの先を振った。
彼が「おなかすいた」とごはんを欲しがったので、お皿にいれてあげた。
すると、彼は彼女に、「まあ、遠慮なく食べなよ」というような表情をして、自分は食べずに毛づくろいを始めた。
彼女が遠慮がちにごはんを食べる隣で、彼は彼女の邪魔をするものがいないように、毛づくろいをしながら辺りを見張っていた。
猫好きの人は良く知っていると思うが、猫が毛づくろいをする時は、本当の目的を隠そうとしていることが多々ある。
彼女はごはんを食べ終えると、可愛い目でこちらを見て(私には、一礼をしたと見えたほどだった)、去って行った。
彼が別の猫をわざわざ家に連れて来てごはんを食べさせたのは、その一回だけ。
猫の世界にも、いろいろなドラマがあるらしい。
真相は永遠の謎だ。




2014年11月19日水曜日

エッセイ2 その角を曲がるのが、好きになった。

 日常は、ある日ある時、突然、思いもかけないタイミングで、いとも簡単に変わってしまう。

 全くの不意打ちで、驚きと戸惑いを味わう間もないから、その分、その瞬間に感じたものが雑味なく現れる。その後、時間の経過とともに、だんだん様々な味わいが加算されていく。不思議なもので、そのような変化との出会いは、こちらが期待している時には、あまり起こらない。あくまでも、予想外の、いわば、そんなことは全く忘れて油断している時に、絶妙なスパイスを利かせて、あっと思わせるのだから、本当にかなわないなあと思ってしまう。

 その出会いのせいで、それまでの平穏な日常が壊れ、一生知らずにいたかったと思う辛いことも、たまにあるけれど、それよりは、その出会いのおかげで、その後の人生が豊かになることの方が多いはずと思うことにしている。その方が、楽しい時間が増えるから。

 人が何気なく言った言葉や、映画や写真で見たワンシーンが、自分を変えていく。それまで知らなかったこと、気づかなかったこと、わからなかったことが、するりと自分の中に滑り込んできて、もう、それまでの私ではなくなる。その時から、また一つ新しい自分になって、その後の時間の密度が高くなる。

 
 その瞬間も、また、突然だった。

 定刻に仕事を終え、いつものように車に乗り、ドアを閉めて、エンジンをかける。最近暗くなるのが早くなり、ライトを付けるという作業が一つ増えたこと以外、することは昨日と同じ。夕方のラッシュで、道路には車が長い列を作る。その列の中に組み込まれると、ほとんど慣性とも言えるほどの状態で、車を運転している私がいる。前の車の赤いランプに反応して、私の右足がほぼ自動的にブレーキを踏む。信号が変わって、周りの車が動き出すと、ゆっくりと私の車も進む。仕事の後、疲れた身体は意識的にエネルギーを節約するのだろうか。頭の中では、冷蔵庫の中に何があったかな、などと夕食の献立をぼんやり考えるくらいで、特に熱心な思考はしていなかった。いつもの信号で止まり、いつもの横断歩道の前でスピードを緩め、いつもの角を曲がる。

 私の日常が変わる瞬間が、そこで私を待っていた。

 その角を曲がると、片側3車線の国道に入る。南へ一直線に伸びる大きな通りに沿って、両側に大きなビルがぎっしりと並び、街路灯と電柱と電線が無機質な線の画を形成する。近くに空港があるので、その上をよく飛行機が通過する。車のフロントガラス越しに見える空は、周囲のビルと道路に切り取られてますます狭い。いつもと変わらない風景、の、はずだったのに。

 そこに、月があった。きれいな満月だった。ビルとビルの間に。私の目の前に。

 ああ、やられた、と、思った。ここで来たか。いやあ、油断してたよ、ホント。

 月があるだけで、ただ、ひとつの白く光る物体が付け加えられただけで、それまでの無機質の世界が一変した。月は、いつも通り、自然の摂理に従って、その時その場所に現れただけなのに、私には特別な瞬間になった。その月が、私を驚かすのに成功したことを喜んでいるように感じられ、目の前の景色が一気に温かくなった。私は笑顔になっている自分に気が付いた。つまり、さっきまでは面白くない表情をしていたのだろう。というか、何も感じようとしていなかったのだ。

 月を見上げながら、自然は本当にすごいなあと実感。それまでの風景を無機質と思っていたのは、自分の心が無機質になっていたから。月は何も言わないけれど、ただそこにあるだけだけど、楽々と人の心を変えてしまう。自然に背筋が伸びて、いつもの渋滞も苦になるどころか、ちょっと嬉しいほど。ほんわかした気持ちで、月をずっと見ていた。もちろん、安全運転で。

 その月を見たのは私だけではないから、きっと、私の他にも、ちょっとテンションアップした人がいたはず。私たちの日常は、変わった。いつもの角を、いつもの通りに曲がった時に。それから、その角を曲がるのが、好きになった。












2014年10月4日土曜日

エッセイ1 ことばの不思議



音が似ているだけで、面白いと感じることがある。


ガルバンゾ―という文字の連なりを初めて見たのは、スーパーのお豆のコーナー。
なんてやる気のあるお豆なんだ!と、一瞬で気に入り、手にとってみて、自分の勘違いに気づく。
自分の心の中の動きは誰にもわからないのに、ちょっと恥ずかしい。
そう、私は、「ガルバンゾ―」を「頑張るぞー」と勘違いしていたのだ。
でも、その日初めて出会ったそのお豆に、その日以来少し親近感を覚えていて、その名前に出会う度に、ほのかに嬉しい。


アフリカにアルジェリアとナイジェリアという国がある。
日本語の「ある」と「ない」が入っているので、何となく、つながりを感じてしまう。
それぞれの国のことばでは、もちろん日本語の「ある」「ない」という意味はなく、また、語句としての切れ目も異なる。私はアルジェリアの言葉もナイジェリアの言葉もわからないが、いつも音の不思議を感じる組み合わせだ。


そういえば、私の名前は、「みな」で、これは、外国でも珍しい名前ではないので、他国の人に覚えてもらいやすいのだが、ちょっと違う反応が返ってきたことがある。

インド出身の女性に自己紹介をした時のこと。
彼女は、とても信じられないという様子で、「本当に?本当に『みな』という名前なの?」と聞く。
インドやネパールでも「みな」という名前があると、私は聞いたことがあったので、自国にある名前が日本にもあることに彼女は驚いたのだろうと思ったが、そうではなかった。
聞けば、彼女の生まれ育った地域の言葉で、「みな」という音は、「魚」を意味するそうだ。
新しい知識の新鮮さと、自分の名前が新たな意味を付加されたような喜びを感じ、また、私は魚好きなので、単純に嬉しかった。
彼女は、自分の住んでいる地域では、親は子どもにそのような名前はつけないだろうと言った。
確かに、日本でも「魚」という名前はつけないので、彼女の驚きも理解できた。

音は同じでも、意味が違う言葉。
でも、社会の中での習慣には同じ部分もある。
そのような異文化の交流は、いつも不思議でおもしろい。

しばらくして、その話をアメリカ人の友人に話すと、「人の名前についてそんなことを言うとは、その人は失礼だね」と言った。だが、私がむしろ楽しかったのだと話すと、理解してくれた。

国籍や生まれ育った環境によらず、個人的に様々な感じ方をする自由を、私たちは持っている。
そして、それらを共有し、理解しあう自由も。
素晴らしいことだ。